今回は、先日アップした父の日の記事にちなみ、亡くなった父(実父)について、私にとって驚愕の「思い出」をアップしたいと思います。
実を申しますと、父は「バツイチ」でした。
つまり、1度の結婚・離婚の後、私の母(実母)と結婚していました。
まあ、今時、珍しいことではありませんね。
でも、バツイチの事実が死後に「ばれた」、言葉を換えれば発覚したのならどうでしょう。
私は、この事実を父の生前はもちろん知らず、死後2年ほどして初めて知りました。
そして、直ぐに父と仲の良かった妹にも確認しましたが、もちろん知りませんでした。
また、その当時に存命だった母にも、確認しようかと思いました。
しかし、母がこの事実を予め知っていれば良いですが、知らなかったら、とんだ「藪蛇」になりそうです。
加えて、母と父方の親戚関係が険悪になることは容易に想像できます。
面倒に巻き込まれることはゴメンなので、バツイチだったことを聞くことは止めました。
母は病気でその6年後に亡くなったので、結局、聞けずじまいでした。
既に父も母も亡くなり、父の思い出を整理するためにも、この辺の経緯をまとめることにしました。

かかあ天下
父と母の夫婦関係を言えば、典型的な「かかあ天下」です。
まず、体格的には、父は身長165cm位で体重60kg弱、母は身長160cm位で体重75kg強でした。
また、8人兄弟の末子だった父は、優柔不断で気弱な性格でした。
一方、5人兄弟の長子の母は、即断即決で気が強い性格でした。
かくいう私も中学生頃までは、ある行動から母を内心恐れていました。
詳細は、「猫に蹴り!実母の思い出(その2)」を参照下さい。
父は体格的にも精神的にも母の尻に敷かれっぱなしであり、「かかあ天下」の表現がピッタリ合います。
家庭の決定権は、ほぼ母にあり、母の決めた事に対して父が同意するものでした。
でも、母は一応、父の確認と承諾を得るようにしていました。
この点、父を立てているのか、責任分散のためか不明です。
おそらく、両方だと思います。
傍から見れば二人はお似合い、言葉を換えれば、「割れ鍋に綴じ蓋」と言ったところでしょうか。
父の思い出
父は、優柔不断で気弱でしたが、子供の私から見たら温和で優しいとも言えます。
また、父は仕事に対して、とても生真面目でした。
この点は、自分が社会人になって以降、尊敬していました。
父の出勤時間を、時計代わりにしていた近所の方が居たとか居ないとか、そんな逸話もありました。
まるで、銀英伝のメルカッツ提督のようです。
私生活においても、浮気はおろかギャッブルもせず、飲み歩いて午前様になることもありませんでした。
こんな父の唯一の楽しみは、夕食時の大瓶1本のラガービールと巨人戦のナイターでした。
父は大の巨人ファンであり、一度だけ東京ドームで巨人戦を観戦した時は、見たことが無いくらい大ハシャギだったそうです。
そんな父が一度だけ激怒した様子を見たことがあります。
それは、ある晩のナイターを見ていた時、巨人のピッチャー槙原が阪神のバース、掛布、岡田と3連続でバックスクリーンへホームランを打たれた事にでした。
ビールを飲んでいた父は、食卓に手を叩き付けて、槙原を罵っていました。
私は、「へー、親父も怒るんだ!」と感心した記憶があります。
こんな父はとある中小企業を定年まで勤め上げ、退職後に同じ会社で請われて嘱託社員として5年ほど働いた後、完全にリタイヤしました。
すると、みるみる元気が無くなり、あんなに好きだった巨人戦のナイターさえ見なくなりました。
また、元来の持病が悪化して入退院を繰り返し、最後は肺炎であっけなく亡くなってしまいました。
この間、完全リタイヤから2年余りです。
父は、生活費や住宅ローン、私たち兄弟の教育費のために母にケツを叩かれながら一生懸命に働いてきました。
やっと、第2の人生を謳歌するターンだったのに!
それに、納めた年金だって殆ど貰っていません。
一方、母は父が亡くなった直後は落ち込んでいたものの、叔母や友人と温泉旅行に出かけたりし、父の遺族年金で悠々自適な生活を始めました。
もちろん、父を生活面で支えた母を批判する気は毛頭ありませんし、遺族年金の受給は当然の権利です。
でも、老後の生活を謳歌する母の様子を見ていると、父の人生はこれで良かったのか?とも思えました。
何となく、釈然としないものがありました。
長くなったので、この続きは次回とします。
では、また。